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神面の人々> ジャズ・シンガー 福田純太郎

「上手に唄おうとすることが、上達の妨げ になっている」と、ある女性に指摘をして いた。その人は福田純太郎。シンガーの大 御所。60年代、ジャズ、ロックのメッカ と言われていた小倉にあった、クラブ「最 后の2$」で、彼のステージを何度も観た。

音楽が彼を愛し抜いたとも言える。

福田純太郎

  彼が西南大学にまだ籍を残していた頃。ベ トナム戦争、反戦、学生運動。音楽が世の 中を変えると信じていた若者の間に、ロッ ク、ブルース、ジャズの火は燃えさかって いた。バンドマンや客は、純太郎の姿を忘 れることが出来ない。ソウルフルで、日本 人でこれほど唄えるシンガーは、当時少な かった。ROCKを志していた筆者は、東京 のライブハウスを廻った。マージービート の風は、ドラックに加速され、ニューロッ ク、アートロックを生んだ。ロックのいく 先を、この目で確かめたいという思いから。 ストーンズの「ジャンピング・ジャック・ フラッシュ」をどこのライブハウスでも聴 かされた。サム&ディヴの「ノック・オン ・ウッド」をリクエストした。「出来ない」。 「だったら、男が女を愛する時」。「それも出来ない」。彼らは、ストーンズの曲を 再び始めた。


福田純太郎

 小倉が黒い音楽のメッカであったことが 少しは理解していただけたろうか。純太郎 は、黒人シンガーのリズム&ブルースやソ ウルを唄っていた。「とことん本物を唄い たかったのだ。怖いもの知らずだったのだ」 彼の謎が、その後解けていった。米軍キャ ンプの沖縄基地のステージに立ち、黒人兵 から「ヘイ!ブラザー」と認められた。 黒っぽいフィーリングと、パワーを感じさ せたボーカリスト。プロ・ミュージシャン 達からも、したわれていた。  小倉で個性的なつわモノが、今日までコ クラ・ブルース、ソウル、ジャズを唄い続 けている。レベルの高いミュージシャンし か生き残れない街が、あの時代にすでに誕 生していた。  ジャズメン達は小倉を誇りに思っている。 小倉をどう評価しようが、そんなものは関 係ない。解かっている人、そうでない人の ギャップが滑稽で、価値観やルールはあき らかに違う。

福田純太郎


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